幸せになりたい!!!
この記事を読んでいただいてくれた方々は幸せになりたいと感じている方も少なくないのではないでしょうか。
そんな方におすすめの本が『幸せは考え方が9割』です!
幸せに毎日を送るためには見方・考え方がとても重要です!
幸せになるためにはなぜ考え方が大事なのか、また具体的な幸せになるための考え方や習慣づけについて徹底解説しています!
「毎日が鬱屈だけど、本当は幸せに生きたい!!!」
そんな風に少しでも感じられている方にはぜひ読んでいただきたい1冊です。
こんにちは。なべおです!
今回はおすすめ本紹介ということで、國分功一郎著の『暇と退屈の倫理学』について紹介していきたいと思います。
オードリーの若林さんも絶賛の本著は、ヘーゲルやニーチェなどとといった著名な哲学者も思想も登場するのですが、哲学にあまり詳しくない方でも非常に読みやすい哲学入門書になっています。
東大生・京大生が選ぶ本の中でもNo1に選ばれており、個人的にも超おすすめの1冊です!
人生において何のために生きているのか分からない、もっと幸せになりたいけどどうして良いか分からないという悩みを持っている方にはこの本が大きな助けになると思います。
本記事ではそんな名著を分かりやすく解説するとともに、僕なりの見解を書いていきたいと思います。
ぜひ最後まで読んでみてください!
目次
第一章 暇と退屈の原理論――ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第1章では暇と退屈の倫理学を考えていくうえでの出発点が明記されています。
その中で筆者はまずパスカルの退屈論について考察しています。
「人間は考える葦である」という言葉でも有名なパスカルですが、実は「退屈」や「気晴らし」といったことでも彼は鋭い意見を提示しています。
この章のタイトルにもあるように「彼はウサギ狩りに行く人」を例にとって「退屈」や「気晴らし」を考察しています。
パスカルはウサギ狩りに行く人にウサギを与えたらどういう反応をするだろうかと思考実験をします。
「ウサギ狩りに行く人は当然ウサギが目的なのだからウサギをもらえればうれしい」そう思う方も多いと思います。
しかしパスカルはウサギ狩りに行く人がウサギをもらったら、逆に嫌な顔をするだろうと推測をします!!
それは彼にしてみれば、ウサギ狩りに行く人はウサギが目的にあるのではなく、その道中で体験するだろう興奮や緊張といったものが目的なのであり、あくまでウサギは欲望の対象に過ぎないと考察しています。
つまり、ウサギ狩りに行く人は単に気晴らしが欲しいのであってウサギそのものを欲しているわけではない、そう主張しているわけです。
世界が豊かになっていく中で私たちは不幸になっている
私たち人間はより幸福な生活、より豊かな生活を欲してきました。
その中で市民革命や産業革命などの種々の革命が実現し、実際私たちの暮らしは間違いなくより便利になりました。
しかしその中で生活にゆとりが生まれたことでかえって、私たちは暇をもてあそぶようになりました。
衣食住に不便のない生活が実現したことで、逆にその余暇の中で何をしたらよいか分からなくなったのです。
パスカルの名言の一つに「部屋にじっとしていられないから、人間は不幸を招く」という言葉があります。
これは言い得て妙ではないかと僕は思います。
生活に余裕が生じたのは良いのですが、逆にすべきことがなく、かといって何もしていないということもできず、その結果として人は不幸に招くということです。
つまり、私たちはより幸福な生活を追求してきたことによって、ゆとりが生まれたものの、それがかえって目的地を見失わせ、不幸を招いたということです、、、
幸福を求めった結果、不幸を招いたというなんとも受け入れがたい結論がもたらされてしまいました。
本書ではこの倫理的には何とも受諾しがたい結論にあらがうために第二章以降で議論がなされています。
第二章 暇と退屈の系譜学――人間はいつから退屈しているのか?
第二章では「退屈」の起源について、有史以前にまで遡って議論が展開されています。
「退屈」の起源においてキーになってくるのが、西田正規氏の「定住革命」の議論です!
「定住革命」とは今から約一万年前において、人類が定住生活を始めたことで生活様式や考え方など多くのことが劇的に変化した言葉を指す言葉です。
詳しい内容は本書の説明に譲りますが、この「定住革命」において大切なことが、「定住革命」によって「退屈と向き合う必要に迫られた」ということです。
それまでは日々食糧や暮らすところを求めて移住していたため、退屈する時間がなく、生きるうえで様々なやるべきことに見舞われていました。
しかし、定住によって安定した生活が可能になったことで、衣食住に困らなくなり、何もしなくて良い時間、「退屈な時間」が生まれてしまったというわけです。
遊動生活における負荷は心地よかった?
定住生活によって負荷がかからなくなったことで、逆に退屈になり、不幸せになっているのであれば、むしろ遊動生活における負荷は心地よいものだったとも言い換えられると思います。
皆さんもたまに旅や引っ越しをしたくなるといった経験はないでしょうか❓❓
ずっと同じところにいるとなんか刺激がなくてつまらないからコンフォートゾーンに出たいというのも遊動生活における負荷を求めるのと親和性があると僕は思います。
そう考えると遊動生活は多少不便でも悪くはないのかもしれませんね。
では定住生活における退屈な時間と私たちはどう向き合ってきて、またこれからどう向き合えばよいのでしょうか?
その答えを見ていきましょう!
第三章 暇と退屈の経済史――なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?
第三章ではまず「暇」と「退屈」はどう違うのかについて述べられています。
その答えはズバリ、同じ時間が余っている状態でも「暇」は「客観的に時間がある」状態を指すのに対し、「退屈」は「主観的に時間がある」状態を指します。
つまり客観的に見れば時間が余っていても、自分自身で時間が余っていないと思っていればそれは「暇だけど退屈ではない」状態である一方、客観的に見れば時間が足りなく忙しそうに見えても、自分自身ではどこか満ち足りずに、時間が余っていると思っていればそれは「退屈だけど暇ではない」状態ということになります。
なお本書では「暇と退屈」それぞれをマトリックスにして以下のようにあらわしています!
暇とどう向き合うか?
定住革命によって私たちは暇な時間と向き合うことを余儀なくされました。
その中で私たちはどう暇と向き合ってきたのでしょうか❓❓
そこでポイントになってくるのが「文化」です!
生活に不自由が無くなったことで、私たちはその生活をより充実させるわけです!
インテリアを良いものにする・おしゃれをするなどなどよりQOLを上げていくわけです!
聖書の言葉を援用したかたちで筆者は
「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。
生きることはバラで飾られねばならない」
と述べています。
このように私たちは定住革命をきっかけに、より生活をバラで飾っていくようになったというわけです!
第四章 暇と退屈の疎外論――贅沢とは何か?
第四章では「疎外」というキーワードをもとに現代の「消費社会」と「退屈」との関係について論じられています!
そして本章でのもう一つのキーポイントは「消費と浪費の違い」です!
消費と浪費の違いは以下でまとめられます!
消費:贅沢には必ずしも必要ない、満足を与えない、ネガティブなもの、際限がない、対象がモノの意味
浪費:贅沢の条件。満足を与える、必要なもの、ポジティブなもの、限界がある、対象がモノそのもの
詳細な内容は割愛するのですが、筆者はここで、現代が大量消費社会になっており、物が大量にある一方で、そのものから人々は満足を得られないそんな状態だとしています、、、
モノがたくさんあるのに、そのものからは満足できず、むしろモノ不足の状態だとしているわけです。
モノではなくその意味に対して人は消費する
暇が生まれたことで、余暇を楽しむわけですが、人はそのもの自体ではなくそこに付与された意味に対して人は消費をするとしています。
例えば期間限定のもの、インスタで話題になっていたものなどなどその中身自体は大して普通の一般的に売られているものと変わらないにもかかわらず、そこに与えられた付加価値に対して人は消費をしてしまうというわけです。
そしてこういったものに対しては終わりがありません。
期間限定なんて言うものはいくらでも作ることができますし、インスタなどのSNSは日々更新されるので、また流行り出したらそこに出向く可能性が高いでしょう。
このように際限のない消費が行われます。しかし人はその行為自体が目的化しており、そこで消費する商品には大して価値を持っていないので、満足感がなかなか得られないというわけです。
なんともめんどくさい時代になってしまいました。
その中で私たちはどうい生きていけばよいのか。以下でさらに分析していきます
第五章 暇と退屈の哲学――そもそも退屈とは何か?
第五章ではそもそも哲学とは何かという問いから出発して、退屈とは何かという問いに発展させています!
本書ではハイデっガーの退屈論をもとに退屈とは何かについて紐解いていっています。
ハイデッガーによると退屈には3つの種類(本書では第一の退屈・第二の退屈・第三の退屈としています)があるとされています。
以下で順番に簡単に解説していきます!
第一の退屈とは例えば駅で電車を待っているときの手持ち無沙汰な状態を指します。
何もすることがなくただ待っている状態、早く電車が着てほしいのに電車が来ずに退屈している状態のことを指します。
この時にポイントになるのは対象物(この場合は電車)が自分の言うことを聞いてくれないことにあります。
そのため、この時間をやり過ごそうと周辺をぶらぶらしたり、むなしいながらも気晴らしをしたりします。
時間がくずついている状態(引きとめ)・そしてむなしい状態に放たれている状態(空虚放置)が第一の退屈のポイントになります。
第二の退屈と第三の退屈は?
続いては第二の退屈です。第二の退屈の例として本書で上がっているのはパーティーにおける退屈です。
パーティーというと楽しいものだと思う方もいるかもしれません。実際、出てくる食事は美味しいでしょうし、友達との談笑もとても愉快なものでしょう。
しかし、いざパーティーが終わると、自分は何のために、なんでパーティーになんか参加していたんだ、、、やけに退屈だったなと思った、そんな経験はないでしょうか❓❓
実はここではパーティーそのものに対して退屈していた、そうハイデッガーは説いています。
そして第三の退屈は「なんとなく退屈」という退屈です。
ハイデッガーはこのなんとなく退屈だと思う状態が人間にはあり、それは逃れられないものだとしています。
そしてこれは人間特有のものだと主張しています。続いての章ではこの点についてより深堀りを進めています。
第六章 暇と退屈の人間学――トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第六章では人間と動物との違いから、退屈について分析をしています。
ここで登場してくるのが「環世界」という考え方です。
全ての動物や人間にはそれぞれ独特の世界の見え方があるというのが「環世界」の考え方です。
人間においても僕のような学生とご高齢の方ではモノの見え方が違うでしょうし、人間とトカゲでも世界の捉え方は違うでしょう。
その中で人間だけはこの環世界の移動が容易であるとしています。
例えば学生でも、インターンに行ったり、バイトをすればある程度社会人の世界で物事を見ることができますし、ご高齢の方と多く接する機会が持てれば、もちろん全く同じとまではいかないまでも、ご高齢の方の視点を持つことだってできます!
このように、人間は自分以外の視点で物事を捉える能力に非常に長けている生き物と言えます。
しかしだからこそ、人間は本質的に退屈、それも第三の退屈であるなんとなく退屈であると筆者は説いています。
第七章 暇と退屈の倫理学――決断することは人間の証しか?
最後の章では「暇と退屈の倫理学」というタイトルで、退屈から逃れ、決断することは私たち人間に特別なものなのかという問いに関して議論が進められています。
ハイデッガーは人間だけが環世界の移動を容易にするために退屈を余儀なくされている、そしてそんな退屈から逃れるためには自らが自由であることを悟り、決断することで、新しい一歩を踏み出すことだとしています。
しかしこれは本当なのか、筆者はそう疑問を呈しています!
人間だけが本当に他の動物とは違い、深い退屈の世界にいるのか、特別な存在なのか、また人間が退屈な状態から少しでも抜け出すためには本当に決断が最善なのか、いよいよ本書における、幸せになるための生き方が結論として導き出されます。
ぜひここからの内容は直接手に取って読んでみていただければと思います!
『暇と退屈の倫理学』の感想
ここからは僕なりの『暇と退屈の倫理学』の感想を述べさせていただきたいと思います。
新型コロナウイルスの感染拡大を受け自粛生活を余儀なくされた中で、今まで以上に「暇」・「退屈」な時間が増えた問う方もいるのではないでしょうか❓❓
そういった方は特に、自分は何をしたいのだろう、何のために生きているのだろうと思い悩んでいるのではないでしょうか?
僕自身も正直よくわかっていないですし、そういった漠然とした不安にさいなまれる気持ちはよくわかります。
現代の大衆消費社会において、多くの人が不自由のない生活を享受している中で、こうした不安とどう向き合っていけばよいのか。
本書はその答えの1つを提示してくれているように思います。
『暇と退屈の倫理学』の口コミ
ここからは『暇と退屈の倫理学』の口コミを紹介していきたいと思います。
この本は。東大&京大で実績第一位❕として紹介されている本ですが、めちゃくちゃ面白かったです。
楽天のレビューから引用
とても丁寧に論理展開して、わかりやすく説明されており、読んでいると引き込まれて、グイグイ入っていけました。
「暇と退屈」というテーマを、様々な哲学者の解釈を混じえながら丁寧に説明されており、「そういう捉え方もあるのかー!」と、とても参考になりました。
ぜひぜひ読んでみて下さい。
すごい。
楽天のレビューから引用
忙しいけどなんかひまだったりとかのぼやぼやしたはっきりしない定義がしっかり区分けられていて面白かった。
読んでる時は退屈なんだなとおもった。
こんな本書いてみたい。
労働と暇は切っても切り離せない仲なんやなと思った。
僕自身もここまで体系的にまとめられている哲学書は始めて読みましたし、自分の中で鬱屈としていたことが晴れたようなそんな不思議な気持ちになりました。
冒頭でも述べましたが決して小難しい内容は述べられてなく、論理も明確で、本文は400ページほどはありますが、読む気力と好奇心さえあれば全く読むのには問題ありません。
ぜひ直接手に取って読んでいただきたい1冊です!
最後までお読みいただきありがとうございました!